能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

草子洗小町(そうしあらいこまち)解説

前・後シテ:小野小町     ツレ(後):紀貫之 壬生忠岑(ただみね) 河内躬恒(みつね) 官女(2人)     子方:王
前・後ワキ:大伴黒主     アイ:黒主の下人
作者:不詳     出典:各地の小町伝説  古今集等の和歌

あらすじ

(伝説等では)
本曲、草子洗小町には、はっきりとした出典の物語が認められていません。 小野小町は平安時代前期の女性歌人で、六歌仙(6人の和歌の名人)の一人でもあります。古今和歌集などに62首が伝わっています。日本各地に小町伝承が残り、有名な人物であったようですが、生い立ちや人となりは謎に包まれ、小野氏(平安貴族の一氏族)の出身であることぐらいが確かなことです。
ここで、六歌仙に関する古今集の「序」での、紀貫之の批評を紹介します。
僧正遍照……歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし
在原業平……その心余りて、言葉足らず。しぼめる花の色なくてにほひ残れるがごとし
文屋康秀……言葉巧みにて、そのさま身におはず。いはば、商人のよき衣着たらむがごとし
喜撰法師……言葉かすかにして、始め終り、たしかならず。いはば、秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし。よめる歌、多く聞えねば、かれこれを通はして、よく知らず
小野小町……古の衣通姫(そとおりひめ)の流なり。あはれなるやうにて、強からず。いはば、よき女のなやめる所あるに似たり、強からぬは、女の歌なればなるべし
大伴黒主……そのさまいやし。いはば、薪を負へる山人の花の陰に休めるがごとし
以上、撰者である紀貫之すら、六人(小野小町は少しましですが)を決して褒めていません、変ですね
(前場)宮中での御歌合せの会の前日、相手が小野小町と決まった大伴黒主は、一計を案じ小町の家に忍び込みます。そして小町が吟ずる歌「蒔かなくに 何を種とて 浮草の 波のうねうね 生い茂るらん」を盗み聞き、万葉集に書き加えておきます。 (後場)翌日、清涼殿で歌合せが始まります。帝をはじめ、紀貫之ほか歌人が居並びます。小町の番になり、歌を詠じます。と、黒主が、それは万葉の古歌だと訴え、その歌を書き加えた草子を示します。小町は万葉集ならば七千首全て知っていますと反論し、黒主の草子を洗わせてほしいと願い出ます。帝の許しを得て洗ってみると、書き入れた一首のみが消え失せました。黒主は非を恥じて、自害しようとしますが、小町の取りなしで帝も許され、小町に舞を命じます。小町は御世を寿ぎ、和歌の徳を称え、舞を舞います。
(おわりに)
小説家・高橋克彦氏は、自著で六歌仙怨霊説を述べています。文徳天皇の時代、惟仁(清和)・惟喬親王の皇位継承争いがあり、五人が共通に、敗れた惟喬親王の関係者で、不遇の後半生を送っています。黒主は別の理由ですが、同様に怨霊化を未然に防ぐため、六歌仙ともち上げ、「名人」「美人」ともてはやしたのだと述べています。怨霊説の正否はともかく、古代・中世日本では怨霊鎮魂は官民を問わず重要事項でした。多くの神社は怨霊神を奉り、多くの能曲も怨霊鎮魂を主題としています。

随心院発行「小野小町と随心院」及び 井沢元彦著「逆説の日本史4・中世鳴動編」小学館文庫刊を参考にしています
(文:久田要)