能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

菊慈童(きくじどう)解説

シテ:慈童     ワキ:勅使     ワキツレ:従臣(2人)
作者:不詳     出典:「太平記」巻13 法花二句の偈の事(別本:龍馬進奏事・天馬の事)

あらすじ

(太平記では)
元弘三年(1333年)鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐帝の隠岐配流中に不遇だった人々は、我が世の春を謳歌します。このような状況で、論功行賞が行なわれますが、後宮の内奏による不正が多く、恩賞も公卿・官人に厚く、武士には厳しいもので、武士の不満は高まり、動乱は止みませんでした。建武元年(1334年)大内裏の造営が決定されます。兵乱の直後に諸国に税を課してまで行なわれる大内裏造営の企てには、眉をひそめる者が多くいました。その頃、出雲の塩冶高貞から龍馬が献上されます。帝から、このことの吉兆を問われ、洞院公賢(きんかた)は、古代中国の周の穆王(ぼくおう)の故事を示し奇瑞と言いますが、万里小路中納言藤房卿は、漢の文帝や後漢の光武帝が、千里の駿馬を遠ざけて栄えた故事、さらに周の穆王が、天馬を喜び国が傾いた故事を挙げ、不吉だと断じます。さらに、今の政治の間違いを指摘し、諫言を奉りますが、帝(後醍醐天皇)は聞き入れません。
周の穆王の故事とは、穆王は、贈られた天馬に乗り天竺に赴き、釈尊から八句の偈(げ)を授けられ、大切に心底に秘していました。ある時、寵愛する慈童が、誤って帝の御枕を跨いでしまい、罰として深山に流されることになります。穆王は慈童を哀れに思い、二句の偈を授けて、毎朝十方を一礼しこの文を1反唱えよ、と仰せられました。慈童は、忘れてはいけないと、そばの菊の下葉に書き付けています。すると、菊の葉から滴った露が谷の水に落ち、霊薬となり、これを飲んでいた慈童は800年の後まで老いることなく、魏の文帝の時代には、彭祖(ほうそ)と名を変え、文帝に術を伝えたということです。(枕慈童と同文)
(能のあらすじ)
古代中国の魏の文帝の時代、酈縣山(れつけんざん)の麓から薬水が湧き出るという話を聞き、宣旨により、勅使が源を訪ねるべく、山に出かけます。一行は菊の花の咲き乱れた山中の庵に、童子を見つけ、狐狼・野干の住処と思われる山中に居る、化生の者かと思います。童子は、貴方こそ化生の者でしょうと言い、自分は周の穆王(ぼくおう)に仕えていた慈童だと答えます。勅使は、周の時代は700年も前のことだと驚き、やはり化生の者だと怪しみます。慈童は、二句の偈を書き添えた穆王の枕を見せ、菊の葉に妙文を写し置くと、葉の露が不老不死の薬となって、それを飲んでいたため、七百歳になっても若々しくしているのだと答え、楽しく「楽(がく)」を舞います。そして、この御代も永く栄えるようにと、長寿を君に捧げ、山中の仙家に帰っていきます。
(おわりに)
観世流「菊慈童」は、他流の「枕慈童」と同じ曲です。観世流「枕慈童」の類曲は他流にはありません。

長谷川端校注・訳「新編日本古典文学全集・太平記」小学館 及び 兵藤裕己校注「太平記」岩波書店を参考にしています
(文:久田要)