能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

摂待(せったい)解説

シテ:老尼      ツレ:源義経・義経の郎党(10人)      子方:鶴若      ワキ:武蔵坊弁慶      アイ:佐藤の下人
作者:宮増      出典:「義経記」巻8継信兄弟御弔事  平家物語 巻11継信最期

あらすじ

(平家物語・義経記では)
平家が滅亡へと至る三連戦「一の谷」「屋島」「壇ノ浦」の最大の殊勲者は九郎判官義経でした。義経は兄頼朝軍の搦手(からめて)の大将として戦っており、自分自身の家来は多くありませんでした。文治元年(1185年)2月の「屋島の合戦」は、軍奉行梶原平三景時との「逆櫓論争」の成り行き上、船5艘に分乗した、義経主従僅か80余の騎馬による奇襲戦でした。その中に奥州藤原秀衡から預かっている佐藤継信・忠信兄弟もいます。義経の軍勢を大軍と見誤って海上へ逃れた平家軍のうち、能登守教経(平清盛の甥)は波打ち際に船を戻し、強弓で義経を射かけますと、継信は義経を庇って射落とされてしまいます。
続く「壇ノ浦の海戦」にも勝利し、平家を全滅させた源氏軍ですが、鎌倉の兄頼朝と弟義経との間が旨くいきません。同年11月北条四郎時政を大将とする鎌倉からの討手が都に上るとの情報で、義経は九州に向かうべく尼崎大物の浦から出帆しますが、急な西風で住吉の浦に打ち上げられてしまいます。義経は運に見放されてしまいました。人々は平家の怨霊の祟りと噂します。義経主従17人は雪の吉野に潜伏します。方針を変更した吉野の僧徒(僧兵)らは、義経を討ち取ろうと、数百人で攻めてまいります。そのとき、佐藤忠信は義経一行を逃がすため、母と三歳の子の将来を頼み、討ち死に覚悟で主従数騎で踏みとどまると申し出ます。吉野での忠信は生き残りますが、その後京都六条堀川の旧義経邸で自害して果てます。
義経一行は無事奥州平泉に到着すると、佐藤兄弟を始め、家来の供養を行います。続いて藤原秀衡が佐藤兄弟の子らの元服をし、継信の子に義信、忠信の子に義忠という名を与え烏帽子親となります。
(能のあらすじ)
義経一行12人は東路を急いでいますと、高札に佐藤の館で山伏を摂待すると書いてあります。弁慶は、知らぬ振りして立ち寄ろうと云います。案内に出た子供が、自分は佐藤継信の子で、祖母が義経に会うために始めた山伏摂待だと云います。そこに継信の母が登場し、12人の山伏が来たのは始めてと語り、義経一行ではないかと問います。弁慶は、本当に継信・忠信兄弟の親ならば、我等身内の名前を知っているだろう、答えなさいと云います。母は、兼房、鷲尾十郎、弁慶……と次々言い当て、子供の鶴若は義経を言い当てます。弁慶は、もう隠す必要もないだろうと身を明し、義経は兄弟の母と子と改めて対面します。老母の願いで、弁慶は屋島の合戦で討たれた継信の最期を語ります。義経も、継信が最期の息の下で老母と幼子のことを語ったと述べ、自分の憂き身を嘆きます。老母は酒宴の用意をし、鶴若が酌をします。やがて夜も明けていき、一行は宿を出立しようとしますと、鶴若は自分も供をすると言い出します。困った皆は、明日迎えに来るよ、となだめて涙ながらに出発します。
(おわりに)
兄佐藤継信は能「摂待」に直接登場せず、話しの主人公として登場します。弟忠信は能「忠信」で主役として登場します。この兄弟は余程世間に人気の高い武将だったのでしょう。

杉本圭三郎全訳注「平家物語」及び高木卓訳「義経記」、島津久基校訂「義経記」を参考にしています
(文:久田要)