能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

小袖曽我(こそでそが) 解説

シテ:曽我十郎祐成      ツレ:曽我五郎時致・ 曽我兄弟の母・ 団三郎・ 鬼王      アイ:乳母春日局
作者:宮増(一説)      出典:「曽我物語」巻7

あらすじ

(曽我物語では)
まず、曽我兄弟の仇討ちの概要をご説明します。鎌倉幕府が出来て間もない頃の話です。伊豆国の土地の支配権争いで、工藤祐経(くどうすけつね)と叔父の伊東祐親(すけちか)が争っていました。そして、工藤祐経が放った刺客の矢に当たり死んだのは、伊東祐親の嫡男・河津祐泰(かわづすけやす)でした。河津祐泰には、妻満江御前との間に何人かの男の子があり、兄を一萬丸、弟を箱王丸といいます。その後、満江御前が相模国の曽我祐信と再婚したことから、兄弟は、兄を曽我十郎祐成(すけなり)、弟を曽我五郎時致(ときむね)と呼ぶようになります。伊東祐親は平家方に組し、没落していきますが、工藤祐経は源頼朝の御家人として力をつけていきます。曽我兄弟は工藤祐経を親の敵と付け狙い、源頼朝主催・富士裾野での盛大な巻狩りでチャンスがめぐってまいります。
仇討ち決行と決めますが、兄弟は、母に先立つ不幸を思い、千草を見ては思い煩っています。特に弟の五郎は、母の勧める出家の道を違え、母に勘当されています。兄十郎は母の元に赴き、後の形見にと思い、母の小袖をもらい、自分の小袖を母の元に残します。弟五郎も小袖をもらおうと母の元を訪れますが、母は取り合いません。そこで、兄十郎は間を取り持ち、五郎を許すよう母を説得し、母も心を入れ替え、勘当が許されます。祝いの盃を交わし、十郎が横笛を吹き五郎が舞います。母は五郎にも小袖を渡し、十郎はいつも返さないのだと云い、必ず返すようにと伝えます。そしてはたと、十郎に貸した小袖は、いつも五郎のために使われていたのだと気付きます。兄弟は供の道三郎・鬼王を伴い帰っていきます。
(能のあらすじ)
建久四年(1193年)五月雨の頃、曽我十郎・五郎兄弟は、富士の裾野での狩の折に、親の敵(かたき)工藤祐経を討とうと計画をたてます。五郎は勘当の身などで、母への暇乞いの際に、勘当を解いてもらおうと揃って母を訪れます。まずは十郎が母に面会し、五郎は物の陰より垣間見ています。やがて十郎が戻って、五郎を母のもとへ行かせますが、母は、末弟の国上の禅師は寺にいるし、時致とは誰ですか?と、取り合いません。泣く泣く戻って十郎に報告していると、さらに乳母を通じ、時致をかばうならば祐成も勘当ですと沙汰があります。十郎は五郎を伴い母に会い、五郎の母を思う心を説き、母の無情の怨みを述べて、兄弟は立ち去ろうとします。と、母は二人を呼びとめ、勘当を許すといい、兄弟は嬉し泣きをします。
そして、喜びの盃をし、門出の祝いに二人で舞を舞います。「舞のかざしのその隙に、舞のかざしのその隙に、兄弟目を引き、これや限りの親子の契りと…………」別れの挨拶をして、富士の狩場に急ぎます。
(おわりに)
「曽我兄弟の仇討ち」は瞽女(ごぜ)の語りで伝えられ、その後、読み物語として広められたそうです。事件の真相には意見が分かれますが、単純な仇討ち事件ではなく、仇討ちに事寄せた、鎌倉幕府の屋台骨を揺るがすような、政治上の思惑の絡んだ事件だった、と考える研究者が多い様です。

市古貞次・大島建彦校注 日本古典文学大系「曽我物語」岩波書店刊 他を参考にしています
(文:久田要)