能楽師|久田勘鷗|HIDASA KANOH

烏帽子折(えぼしおり) 解説

前シテ:烏帽子屋の亭主     後シテ:熊坂長範     前ツレ:烏帽子屋の妻     後ツレ:一、二、三子方:牛若丸     ワキ:三条吉次
ワキツレ:三条吉六     アイ:早打宿の亭主・火振三人
作者:宮増     出典:「義経記」鏡の宿の強盗  「平治物語」

あらすじ

(平治物語・義経記では)
保元の乱、続く平治の乱において、複雑な政争を勝ち抜いたのは清盛でした。敗れた源義朝(よしとも)と鎌田政清の主従は敗走し東国へ向かう途中、知多半島野間において、政清の舅長田忠致に暗殺されます。多くの義朝の子のうち、三男頼朝(母:熱田大宮司の娘)や九男牛若(母:常盤御前)は処刑の寸前、平家方の池禅尼(いけのぜんに)の助命で命永らえます。頼朝は伊豆に配流。牛若は7歳になると鞍馬寺に入り、学問一筋の生活を送ります。ある時、鎌田政清の子鎌田三郎正近(正門坊)が牛若に会い、源氏の代々を詳しく話します。このことがあった後は、牛若は学問を捨て、鞍馬の奥「僧正ガ谷」の貴船明神で太刀の稽古をします。この頃より名を変え、遮那王と呼ばれます。16歳になった年、京都三条の砂金買いの商人・吉次信高なる者が鞍馬の多聞天に参って念誦していた折、遮那王を見、奥州藤原秀衡(ひでひら)が、主君として仰ぎたいと言っていた牛若に違いないと考え、奥州下りを持ちかけます。承安四年(1174年)2月2日明け方、鞍馬寺を出、粟田口で吉次と落ち合い、追手が来る前にと馬を全速力で走らせます。その日は、近江国「鏡の宿場」に泊まります。そしてその夜、出羽国の名高い山賊・由利太郎と越後国の藤沢入道が共謀して、吉次の財宝(商品)を奪うべく100人程で長者の家に押し入りますが、反対に遮那王が由利太郎・藤沢入道を討ち取ってしまいます。翌日、美濃青墓の宿で兄朝長の墓に参った後、尾張熱田神宮に着きます。熱田神宮の前の大宮司は義朝の舅、頼朝の母も熱田の外ノ浜に居ます。遮那王はここで大宮司を烏帽子親にして元服を済ませ、はじめて烏帽子を被り、義経と名のります。
(前場)
三条の商人吉次信高が弟吉六とともに、宝(商品)をもって東国に向かっている時、牛若が同行を頼み一緒に近江国「鏡の宿」に着きます。と、すでに牛若に手配が廻っています。急ぎ元服して烏帽子を着け、東(あずま)男に変身しようと烏帽子屋を訪れ、三番の左折りを注文します。今は平家の御世、右折れが標準です。亭主は不審に思うも、先祖が八幡太郎義家の烏帽子を折った話しをし、元服を祝福します。義経は礼に刀を渡して帰ります。亭主が妻にその刀を見せると、自分は鎌田政清の妹で、その刀は牛若の守刀だと教え、一緒に牛若を尋ねて刀を返し奇遇を喜びます。翌日の宿は美濃赤坂宿。宿に着くと、今夜盗賊が襲ってくるとの風聞です。牛若は50騎ばかり斬り伏せれば退散するだろうと、守りを引き受けます。
(後場)
盗賊の頭、熊坂長範は手下が次々に討たれ、投げ松明も消されてしまいます。一度は「盗みも命のありてこそ」と退こうとしますが、やはり面目がたたないと攻め込みます。牛若と討ち合いますが、刃がたちません。遂に斬りふせられてしまいます。
(おわりに)
謡曲「熊坂」と題材は同じですが、配役・脚色が異なり、また違った能曲となっています。

高木卓訳「義経記」、及び島津久基校訂「義経記」、並びに岸谷誠一校訂「平治物語」を参考にしています
(文:久田要)